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    春風

     
     ──今日も、鬼哭村の平和な一日がはじまる。

     朝餉が終わると、まず御屋形様にその日の指示を仰ぐ。
     長い年月の間に、それは少年の習慣となっていた。

    「御屋形様。今日は俺、何をしたらいいんですか」
     例の如く神妙な顔をして主(あるじ)の命を待つ風祭。

    「ああ、澳継か。そうだな、今日は東側の畑が手薄になっている。お前も手伝ってやってくれ」
    「ええッ。ま、また畑仕事ですかぁっ?う……あの、御屋形様の命令とあれば、何でもやりますけど、こう毎日畑耕してばっかじゃ、さすがに飽きて……いや、その」

     焦る少年を前に、村の長は考えを巡らせた。
    「うむ。そういえば、また鼠の被害が増えたとの報せがあったな。下肥も畑へ運ばねばならんし」
    「ええ?あ……は、畑でいいです。畑でッ。早速、行ってきま~すッ」

     それ以上聞くのはマズイと心の声が警告する。
     風祭は後退りすると、身を翻し慌しく駆け出した。
     天戒の声が後を追いかけた。
    「俺も、行くからな」

     主の思案げな眼差しに、少年が気づくことはなく。
     天空には雲雀がさえずっていた。



     何かが、間違っている。
     鍬を担ぎ、あぜ道を歩きながら、少年は溜息を吐いた。
     この俺が畑仕事。
     闘いと探索と修練に明け暮れていた、去年の今頃には考えられなかったことだ。

     また、溜息を吐く。何度目になるか、もはや分からない。
     舌打とともに、道端の石ころを、ひとつ、蹴った。

     富士山頂における柳生との闘いが終わった後、彼は力を持て余していた。
     真綿で首を締められている心地がする。
     空がなくなった鳥は、水がなくなった魚はこんな気分になるのだろうか。
     自分が自分でなくなっていくような気がして、苛々して仕様がない。

     俺は、生きている。

     それは生死を賭けた闘いの渦中にあってこそ、血肉を伴って実感できるものだったというのに。
     戦場から長く離れていると、自分が小さな、ひどく詰まらない人間になってしまったかに思えて、心細くなってくるのだ。

     かつての鬼哭村は、平時にあっても、その水面下ではいつ戦が始まってもおかしくはないという緊張感が漲っていた。
     生死すらも、明日はどうなるか判らない。
     そんなギリギリの状態にありながらも、気のおけない仲間たちと過ごす毎日には、いっそ楽しいと感じられる程の気持ちの良い張りがあった。過ぎてみれば短く、思い返せば長かったようにも思う、非常だった日々。それらの瞬間は今もなお、記憶に鮮やかだった。

     戦場にあれば、彼らと強固な信頼の糸で結ばれているのがわかる。
     剣戟の最中にあって互いに交わし合う声は、背筋がぞくぞくするような、胸がときめくような、甘美な戦慄を伴って耳に響いた。
     命すらも預けられる絶対的な信頼感。それを確かめるのに、多くの言葉はいらない。目と目で合図しただけで、互いの心ははっきりと通じる。
     俺の命は皆のもの、皆の命は俺のものといった、鮮烈な一体感がそこにはあった。

     空を仰ぐ。

     その、共に死線を越えた戦友たちは、今はもういない。
     皆、それぞれの道を選び、何処かへと去っていった。
     今なお居る者も、武器を手放し、新しい何かをしはじめている。

     また、溜息が出た。

     あれから、三月。
     闘いの日々は、遠い過去の出来事となってしまった。
     いつ果てるとも知れぬ平穏な日々。その先には一体何が待っているのだろう。

     深い谷底の際で、最後の一歩を踏み出そうとしている自分がいる。

     ふと、そんな感覚に襲われた。
     足元の地面がふいに無くなってしまうような気がして、背筋がぞくっとざわめいた。
     あれこれ悩むのは、性に合わない。

     少年は頭を振り、考えるのを止めにすることにした。



     畑に着くと、他の男たちと一緒に、少年は畑を耕しはじめた。
     各々の持ち場で、作業に勤しむ村人たちの顔は、すべて生き生きと輝いている。
     彼らの姿に、目をすがめる。
     不思議な、複雑な想いでその風景を眺めた。

     こんなところも、鬼哭村は――変わった。
     風祭が来た頃は、日常生活の中でも村全体にピリピリと緊張した空気が漂い、こんな開けっぴろげな笑顔というのは、そう見られるものではなかった。

    (あいつが来てからだよな。こんな気の抜けた顔をする奴が増えたのは)

     思い出すだけでも気に障る、一人の男が脳裏に浮かぶ。
     非常が日常であったこの村にありながら、ごく自然に日常をやっていた不可思議な男。

     聞き慣れた力強い声が辺りに響いた。
    「おい、皆!調子はどうだ?」

     馴染み深い赤い髪が、微風になびき陽光に照り映える。
     野良着姿で鍬を手にして現れた天戒を、村人たちがどよめき歓声をあげ迎え入れた。

     少年はこめかみを押さえて、内心の動揺を鎮めようとした。
     これだけは、どうしても慣れない。納得がいかない。

    (夢みてんだとしか思えねェ)

     御屋形様ともあろうものが、下々の者と一緒に畑を耕すとは!
     俺が憧れた、侵し難い威厳に満ち溢れた鬼道衆の領袖、皆の崇敬の的であったその人は、一体どこへ消えてしまったのか?

     風祭は鍬にもたれ、頭を振りつつ、また溜息を吐いた。賑やかな騒ぎの中、そんな彼に気を留める者は誰もいない。

    「御屋形様っ!順調に進んでますだよ」
    「そうか。それでは、俺も仲間に入れてもらうとしよう」
     皆に指示を出しながら、自分も作業にかかる天戒。
     里人たちに囲まれ、彼らと交わす天戒の笑顔は、春の陽射しとよく似合った。

    (しゃあねえか)

     釈然としないながらも、その笑顔に少年も悪い気はしない。
     本当に、この村も、御屋形様も変わった。
     良いことなのだろう。
     みんなが幸せに笑って暮らせる日が来たというのは。
     徳川への復讐を捨てた後は、そのために、御屋形様は、俺たちは命を賭けて闘ってきたのだから。
     ただ、言い様のない寂しさが胸を吹き抜けた。

     俺だけが、笑えない。

     皆が闘いのない平穏な日が訪れたのを喜んでいるのに、俺だけが心底から笑えずに独り立ちつくしている。
     皆と同じ場所にいるはずなのに、自分だけが取り残されて遠い別の場所にいる。 そんな焦りに似た気持ちがあった。
     何故だろう。胸がズキンと痛む。

    (くそッ)

     肩をいからせ、力任せに鍬を振る。畑を耕すことに、集中した。
     気を紛らわすためには、そうするより他に、今は何も思いつかなかったのだ。

     やがて陽は中天に座した。

    「澳継!昼餉にするぞ。お前もあがれ」
    「は、はいッ。わかりましたっ」

     素早く近くの小川で手と口をすすぐと、呼び声に応え、主の待つ樹の下へと駆け寄った。
     村人の一人から握り飯と水の入った竹筒を持たされ、天戒の元へとおもむく。
     木陰に風祭は主と並んで座り、握り飯をかじり、口に頬張った。

     吹き過ぎる爽やかな春風に包まれ、快い沈黙が降りる。
     村人たちが他愛もなく談笑する声を、風が運んできた。
     草花の香りが鼻を、葉ずれの音が耳をかすめ、遠く小川はさわさわと流れ、レンゲやタンポポが風に揺れる。
     地面からのぞく根の上を、とろとろアリが歩いていた。
     陽光に暖められた空中を、軽い羽音を立て蜜蜂が飛んでいた。

     時は穏やかにゆっくりと流れていた。

     握り飯を食べ終わり、竹筒の水で咽喉を潤すと、天戒は傍らの少年に目を向ける。温かみのある主の声が、耳に心地良かった。

    「良い天気だ。種を蒔き終われば、少し雨が欲しいのだがな。水回りにやや難があるのが、この村の困ったところだ。嵐王、いや、洒門に何か妙案がないか相談はしてみたのだが。しばらくは、このままでしのぐしかあるまいな」

    「は、はあ。俺はどうも、そういう事にはうとくって」
     目を白黒させ当惑顔で応じる風祭に、天戒は微笑んだ。

    「すまんな。闘いが無いなら無いで、片付いていない問題が結構あると気づいてな。昨年など、闘いで省みる余裕がなかったことだから。どれだけ村の皆に負担を強いていたか、本当に、よくわかった」
    「……」

     指についた最後の米粒を口にしながら、少年は主の横顔を見守る。
     一見、穏やかに凪いでいる天戒の面の下に潜む何かに、想いを馳せた。

     あの闘いの最中に、命を散らした者、大切な誰かを喪った者たちも多くいる。
     徳川への復讐は、鬼哭村に住まう者全ての意志だった。その血筋と能力と人柄から、最も領袖に相応しい者として里人達の信望を集め、彼らの期待に応えて、御屋形様はこの村を導き護ってきた。皆の気持ちを代弁し、指揮をとり、命を下していたのがこの人だった。

     だが、村全体が復讐の熱気に覆われていた、あの時代。

     俺が、先に目を向けていたら……。

     最後の闘いの後、村の人々と死んだ者たちを弔った際に、天空へと立ち昇る護摩の煙をじっと見つめ、影を背負い佇んでいた主の姿。微かに漏らされたその呟きが思い出された。

     復讐を糧とし、徳川を相手に闘い、敵味方共に、多くの血が流され、命が喪われた。
     御屋形様は長として戦を選んだ己を、悔やんでいたのだろうか。

     たとえ、そうであったとしても、後悔しているとも、間違っていなかったとも、彼は決して言うまい。
     死者たちへの鎮魂の想いが、それを許すまい。

     故に、どんなに辛い記憶であろうとも、御屋形様はそれを手放したり目を逸らしたりはしないのだろう。今日の平和を得るために、多くの命が代価として償われたということを。皆が忘れても、天戒その人がそれを忘れる事は決してない。ひとりその重荷を胸に秘め、全身で受けとめ、生きている者たちの為に、彼は己の人生を捧げてこれからも生きてゆくのだ。

     そんな人なのだ。俺が全身全霊を賭けて憧れた、この漢は。

     主の声に、少年は我に返った。
    「今日、この平穏な時を過ごせるのは、皆のおかげだ。俺ひとりで足掻いたとしても、この日を迎えることはできなかっただろう」

     天戒は、まっすぐに少年を見た。
    「澳継。お前にも、感謝している」
     少年の眼が、見開かれた。
    「どんな苦境にあった時でも、お前は、俺についてきてくれた。今まで、お前は本当によくやってくれた。それなのに、これほどお前に尽くして貰ったのに、俺の方ではお前に報いるものを何も持たない」

     風祭の手が混乱したように空をさまよった。
    「御屋形様が俺に礼を言う必要なんて、ありませんよ。俺が好きでやってきただけなんですから」

     嬉しい言葉のはずなのに、何故だか不安な予感がする。

    「御屋形様の手足となって働くのが、俺の生甲斐なんですから。御屋形様の傍に居られるだけで、俺は」
    「澳継」

     それ以上聞きたくない。聞いてはいけない。

     耳を塞ぎたい感覚に襲われた。
     間近には、淡い春霞が棚引く山々に眼を注ぐ天戒の横顔がある。
     その口から紡ぎ出される静かな声にとらえられ、少年は抗うことができず身を固めた。

    「俺は、鬼道衆を散じた。この村を外界から隔てていた結界も、今はもう解き放ってある。鬼哭村は、外へ向かって開かれた場所となったのだ。春の訪れとともに多くの里の者たちが、新天地を目指して旅立っていった。村を出てゆく者は、これからも後を絶たないだろう」

     天戒はゆっくりと体を起こし、少年の眼を覗き込んだ。
    「お前は本当はどうしたい?もし、お前の望むものがこの村に無いのであれば、俺に縛られることは、もうないのだ」

     瞳が不安と驚愕に揺らめいた。
    「お、御屋形様ッ!それは、俺にこの村を出ろってことっすか?」
     天戒は頭を横に振る。
    「そうではない。この村はお前がいつでも帰って来ることができる故郷だ。帰りたいと思った時、お前が戻ってこられるように、俺がこの村を護るのだから」

     天戒の大きな暖かい手が、力強く背から肩へとまわされる。
     軽く叩かれたその手の感触と温もりが、なぜか哀しかった。

    「だが、俺がお前にしてやれることは、そう多くはない。お前には大きな可能性があるのだ。俺のために、ここでくすぶらせておくには惜しいと思うのだ」
    「……」
    「慌てることはない。どうしたいか心が定まったら、遠慮なく俺に話してくれ。いいな?」

     いつもは威勢良く天戒の命令に応える少年が、無言のままでいた。
    「御屋形様。俺……」
     絶句の後、ごくりと唾を飲み込む音がする。

    「すみません。時間を下さい」
     やっと、それだけ言うと、力無く少年は立ち上がった。
    「うむ。俺も屋敷へ一旦戻るからな」
     悄然と去っていく風祭の姿を見送る天戒の瞳には、愛しみの色があった。

     入れ違いに、破戒僧がやって来る。
     すれ違いざま、からかうように風祭に声をかけるが、少年は一言も発することなく、双羅山の方角へと駆け出して行った。
     怪訝な面持ちで、九桐は頭を撫でる。
    「どうしたのですか」
    槍遣いはさっきまで風祭のいた場所に座を占め、腰を降ろした。
     ふうっと、天戒は長い息を吐く。
    「あいつに、これからどうしたいのか、訊いてみたのだ」
     九桐は眉を上げた。
    「それは、厳しいことを仰られましたね」
    「言い方には気を使ったつもりだが。不味かったかな」
     破戒僧は横にかぶりを振った。
    「いえ。もう、そういう時期でしょう」

     従兄である男の横顔にじっと目を注ぐ。天戒の眼差しは、遠く遥か彼方を見据えていた。その唇から発せられた声音が、染み入るように優しく、風に溶けていった。

    「あれは、俺が居てくれと言えば、死ぬまでこの村に居るかもしれんからな。たとえ畑仕事と草刈の毎日だったとしてもだ。それは、あいつ自身の為にはならん」
    「そうかもしれませんね。しかし、村を離れるのは風祭にとって容易ではないでしょう」

     若のいない生活など、今のあいつには思いもよらないでしょうからね。

     天戒は微かに苦笑した。
    「此に残るも離れるのも、あいつの心次第だ。俺がしてやれることといえば、したいようにさせてやる事くらいしかないからな」
     従兄の瞳に陰が浮かぶのを認め、九桐の表情が慰めるように和らいだ。
    「あれが居なくなると、この村も寂しくなりますね」
    「そうだな。しかし、背に腹は替えられまい。なにも今生の別れというわけでもあるまいしな」

     背筋を伸ばし立ち上がる天戒。それに倣って九桐も腰を上げると、槍を担ぎ直した。
    「まぁ、とにかく風祭の様子を見てきましょう。あいつのことだから、夕餉時までには普段の調子に戻っている気もしますがね」
    「たのむ、尚雲」

     双羅山に向かう九桐の姿を見届けると、天戒は一人、屋敷へと戻っていった。



    「でや~ッ!破ぁ~ッッ!!」
     修業所に近づくと、何時にも増して派出な音が聞こえてくるのに九桐は気づいた。

    (やれやれ。思った通りだな)

     大木の大枝にぶら下げられた丸太が、重量感を伴い振り子のように揺れている。
     裂帛の気合に合わせ、汗だくになって力任せに其れを蹴り飛ばす少年に、破戒僧は軽く声をかけた。

    「よぉ、風祭。若から話は聞いたぞ」

     来訪者の方には眼もくれず、風祭の意識は反動で戻らんとする丸太に向けられたままだ。
     気合と同時に一際、盛大な撃撲音が生じ、大地が震える。

    「九桐か。フン、笑いに来たのか。御屋形様からやっかい払いされちまった俺を」
     烈しい修練の犠牲となって幾度となく取替えられた丸太は、見るからにボロボロになり、角が取れかけている。

     風祭の言葉に、槍遣いは眉を上げた。
     音に負けぬよう、声を張り上げた。

    「お前、本当にそんなふうに思っているのか?これまで一緒に闘ってきた仲間を見限るような、そんな器量の狭い男だと、若の事を思っているのか?」

     少年の動きが一瞬止まる。その頭を丸太が直撃し地面に転がり込んだ。
     辛うじて手をつき、顔から突っ伏すのだけは何とか避けたが。

    「い、痛てェッ!!つぅ~ッ……な、何しやがんだ、てめェッ」
    「何やってるんだ、お前は」

     呆れ顔で九桐は、後頭部を擦りながら立ち上がる少年を見守った。
     涙目になりながら、体勢を立て直し、風祭は必死で答える。

    「そ、そんなんじゃねェよッ」
    「……」
    「御屋形様の事をそんなふうになんか、この俺が思うわけがないじゃねェかッ」

     肩で荒く息を吐き、よろよろと歩き出すと、少年は揺れる丸太の射程外へと逃れた。
     息を整えながら、木の根にへたり込み腰を下ろす。
     顔を相手の方に向けようとせず、風祭の視線は地面に落ちた。
     その虚ろな眼には何も映っていないようだったが。

    「九桐」
     治まりつつある息遣いの中、少年は呻くように言った。
    「俺はどうしたらいいんだ。俺は、闘うことしか知らない。闘うことしかできないんだッ。闘いがなくなっちまったら、俺にはすることが何もない。御屋形様のためにできることが、俺には何もないんだ」

     絞り出すように吐き出された風祭の言葉。かつて、少年がこんな風に話すのを聞いた事があっただろうか?
     どれほど遡ろうが、記憶の底からそれを拾い出す事はできないだろうと、九桐は思った。

    「俺は、本当に役立たずになっちまった。俺の居場所はもうここには、無くなっちまったんだ」

    (お前は本当はどうしたい?)

     お前の望みは、何なのだ?
     天戒の言葉が脳裏に木霊する。

     少年には解かっていた。
     俺のしたい事、なりたかったものは、ただ一つ。

     御屋形様に必要とされる漢になりたかった。

     固く握り締められた震える拳の上に、不覚にも大粒の涙がぱたぱたと落ちた。
     情けない姿を見せたくはないのだろう、隠すように涙に濡れた顔が背けられ、膝と腕に埋められる。己の弱みを絶対他人に見せようとしなかった誇り高い少年が、意地も恥も自尊心もかなぐり捨て、悔しさと悲しさに声を押し殺し、泣いていた。

     九桐は黙ってその様子を眺めていたが、やがて槍を肩から下ろすと、少し距離を置き少年の横に腰を下ろした。
     彼の方を見ずに、槍遣いは静かに言う。

    「それは俺も同じだよ。風祭」
    「……え?」

     汗と涙に汚れた面を上げ、少年は九桐を見た。
    「俺も、闘うことしか能のない男だ。平和な時にあっては、この槍も振るいようがない。だから、お前の気持ちは、よく解かる」

     泣き顔がくしゃくしゃになった。掌で涙を拭うと、泥が混じり、その顔はますます悲惨になった。
    「ちぇっ。お前と同じなんて、嬉しくもなんともねーよッ」
    「ははははッ。泣くだけ泣いたら、少しは元気がでたか」
    「う、うるせェッ」

     相手の顔に在るものに意表をつかれ、風祭は口を閉じた。
     かつて見た事もないような優しさが、目の前の破戒僧の面にあるのに驚く。
     九桐の声が、淡々と続いた。

    「風祭は平和が嫌いか?」
    「……」
    「皆が明日の命の心配をせずに、笑って過ごすことができる、今の村は嫌いか?」
    「……」
    「平和な村で、刀の代わりに鍬を担いでよく笑う、今の若は嫌いか?」
     たまらず、答える。

    「そ、そんなことはねェよッ。そりゃ、以前と様子は変わっちまったかもしれねェ。だけど、御屋形様は御屋形様だッ。平和呆けしたとか、腑抜けになっちまったなんて事は思っちゃいねェ。いざ闘いとなれば、御屋形様はきっと身体を張ってでも、他のヤツらを護ろうとするに違いないんだ。そんな処は、絶対変わっちゃいないんだッ」

     力を込めて否定する風祭の姿に、破戒僧はニヤリと笑う。
    「ははははッ。安心したよ。お前もまだ頭は確かなようだな」
     頬を膨らませ、顔を赤く染めたまま、少年はぷいと顔を逸らす。
     それに構わず、言葉は続く。

    「若は、復讐のために闘っていた以前の若は、俺たちや村の命運を背負い、自分のために生きるということを知らなかった。若の周りにいたのは、若を崇拝するか、若の手足となって働く事しか考えていない奴だけだった。俺も含めてな」

     はっと振り向き、何か言いかけようとしたその口が、力を失い閉じられる。 九桐の双眸が、じっと少年を見据えていた。

    「お前は若に必要とされる人間になりたいのか。それとも、お前が若を必要としているのか」

     少年の眼に衝撃が走る。
     破戒僧の眸が、そのままゆっくりとその視線を捉える。

    「若は、皆が復讐や九角家のしがらみから離れて、自由に己の人生を選び、幸せに生きる事ができるようにと望んでいる。そして皆が自由になる事で、おそらく、若も重荷から開放され、若自身の為に生きられるようになるのだ。俺は、そう思う」

     呆然とこちらを見る少年に向かって、九桐は告げた。

    「風祭。お前も自由だ。俺たちがそれぞれ進むべき道を見出す事。それが若を自由にするんだよ」

     自由。その言葉を、風祭は俯き、苦い想いと涙と共に呑み込んだ。
     鼻をすすり、ぐいと手の甲で涙を拭うその姿を視界に納め、破戒僧は腰を上げると無言のままその場から立ち去った。

     九桐の内にも、風は吹いていた。
     風祭に向けて放った言葉、あれは俺自身に告げるべき言葉でもあったのだと。
     彼は知っていた。

    (俺も、人の事は言えないかもな)
     風祭よりマシな状況ではあるが。俺にはまだ、すべき事が残されているのだから。

     友の大きな枷となっている、陰と陽の《鬼道書》。
     あの重すぎる遺産から天戒を解放するという、最後の使命が。


     黒土を柔らかく踏み締めながら、こちらへと向かって来る人影を認め、破戒僧は槍を掲げ声をかけた。先ほど置き去りにしてきた少年の半身ともいうべき若者に。

    「龍斗か」
    「澳継は?尚雲と一緒じゃなかったのか?」
    「修業所だ。相変わらずな」
     どうしたのだ、という破戒僧の眼での問いかけに、答えが返る。

    「そうか。天戒と話していたら、澳継の様子を気にかけていたんでな。俺もあいつに頼みたい事があったもんだから。それで探しに来たんだが」
     今、風祭が最も顔を合わせたくないであろう若者の言葉に、九桐は胸の奥で呟いた。

    (少し、時間を稼いでやるか)

     貸しにしとくぞ、風祭。

     話しながら、槍遣いは道端の岩に腰を下ろした。
     つられるように、龍斗もその傍に腰を下ろす。
    「ああ。あいつもちゃんと解かっているよ。奴にとっても、先のことを考える切欠になったろう。何時までもこのままでいるわけにも、いかないからな」

     九桐は目を上げて龍斗の顔を見た。
     注がれる眼差しには好奇の光がある。
    「しかし、お前が風祭に頼み事とは、面白い。いったい何なんだ?」
     龍斗があっさりという。
    「俺、近いうちに江戸を離れることにしたんだ」
    「そうか」

     長く一所に留まる事ができない。自分もそうだが、彼の中にもそんな風に似た性があるのを九桐は知っていた。

     思えば、この風は、彼がもたらした風なのだ。
     彼が村に現れた日から、すでに風は吹き始めていた。
     鬼哭村に吹き溜まっていた風は、一年を経て、一杯に育ちきった燕が巣から飛び立つように、まさに今、解き放たれようとしている。

     想いに沈みかけた九桐の心を、龍斗の声が引き戻した。
    「そうなると、何時逢えるか判らないからな。あいつに預けたいと思っていたものを、今のうちに渡しておこうと思ってだな」

     槍遣いの若者は、首を傾げた。
    「ほう。それはますます面白い。何なんだ、それは」
    「俺の、陽の技だよ」
    「!」

     意表をつかれた九桐の表情に、龍斗は一瞬、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
     その顔がすぐ真顔に戻る。

    「尚雲も、俺たちと一緒に修練していたから、解かると思うが。俺たちが身につけているのは、同じ根から螺旋に延びる表裏一体の技だ。陰と陽のどちらが欠けても完全なものとはいえない。この技を後の世に残そうとするなら、二つの技をひとつのものとして伝えていく必要があると、なんとなく思っていた」

     槍遣いは、なるほどと肯いた。
     傍らに在る陽の技の伝承者を訝しげに見やった。
    「お前は、どうなんだ?技の伝承ということなら、陽の技と緋勇の名を受け継いだお前にも、その務めはあるだろうに」

     それを聞き、龍斗は苦笑混じりに頭を掻いた。
    「うん。そうなんだけどな。だが念の為というか……澳継に頼んだ方が確実だ。この技を残したいという気持ちが無いわけじゃないが、恐らく、俺はあいつほど執念深くは考えないからな」

     少年の陰陽の技への拘り様を思い出し、今度こそ納得する。沸沸と笑いが込み上げて来た。
    「それで風祭にその役目を押し付けに来たというわけか。はははッ。確かに適任とはいえるがな」

     二人の間にひとしきり堪笑いが続いた後、しみじみと龍斗は言った。
    「澳継には、天賦の才がある」
     陰と陽の技の本質に気づく事ができたのは、風祭あってのことだ。

      陰は陽を離れず、陽は陰を離れず。
      陰陽相成して、初めて真の勁を悟る。

     もし、少年が、陰の技を持つ半身である彼がいなかったなら、独りでその真理に到達できたかどうか。

    (あいつには言えないがな)
     龍斗はそっと笑みを零した。

     陽の技を委ねること。それは、 かつて陰の技が陽の技に劣ると思い込み、事ある毎に敵愾心をぶつけてきた彼の少年への、龍斗が贈ることのできる最大にして最後の餞だった。

     遠く、未来へと心を馳せる。
    「それにあいつなら技だけじゃなく、技と一緒に俺たちの想いも、きっと伝えてくれるだろう」
     技に託された人の想い。想いが人を繋ぎ、生きる力になるのだという事を。

     九桐はふと風祭に羨望を覚えた。
     龍斗と澳継。表裏一体となる陰陽の技で結ばれた、二人の龍。
     今日この時を境に、二度と再び遭うことがなかったとしても、骨肉に沁み込んだその技を身に持つ限り、二人の絆が断ち切れることは、きっとないのだろう。
     龍斗は腰を上げた。
    「それじゃ、行ってくる」

     九桐は、修業所に向かおうとする若者を、おもむろに呼び止めた。
    「龍斗。お前、俺の頼みも聞いてはくれないか?たったひとつ、俺自身が望む、俺のためだけの願いだ」
    「なんだ?」
     不思議そうな龍斗の顔に、九桐はじっと眼を凝らした。槍で一つ地面を衝く。

    「お前が江戸を立った後、何処かの地で逢ったなら、俺と勝負しよう。一対一で、手加減抜きでだ」

     なんだ、それでいいのか?

     笑顔がそれに応えた。
     不敵な二対の双眸が固く交わる。

    「そりゃあ、いいな。楽しみにしてるぜ。その日までせいぜい腕を磨いておけよ」
    「あはははははッ、良い返事だ、龍斗。お前の方こそ、その腕を鈍らせるなよ」

     この瞬間を忘れるまい。

    (お前と闘える事を、俺はいつも誇りに思っていた)

    「忘れるなよ、龍斗。約束だ」
    「ああ、もちろんだ。お前こそ、何処かでくたばったりするんじゃないぞ」

     そして、この出遭いがあった事を、俺は。

     想いを乗せて、風は吹く。
     山から村へ、村から町へ。町からそのまた何処か遠くへと。
     春風は留まることなく、この世界を駆け抜けて――


     夕刻、擦り傷だらけの姿で戻ってきた双龍は、二人の帰りを待っていた天戒の笑顔で迎えられた。例の如く、手当てを受けながら、からかいの鉾先が少年へと向けられる。それに動じなかった風祭を、桔梗は深い愛しみの眼で見つめ、残念そうに嘆息した。

     九角屋敷に灯が点り、やがて馴染みの面々が三々五々やって来る。
     厨房からは暖かい夕餉の匂いが漂ってきた。
     夕闇が深まるにつれ、空に現れた月や星々が、光を増し輝きはじめる。

     その頃には、いつしか和やかだった酒宴もたけなわとなり、賑やかな笑い声が鬼哭村の夜空に、響いた。


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