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    夏風

    Author:夏風
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    土竜穴から引越しました☆

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    曙光

     
     事のはじまりは、数人の急病人だった。
     雨季の天候のせいだろうか。
     腹痛を訴え高熱を発した子供達のため、薬を調達しようと龍斗は町へ行くと言ったのだった。

     鬼哭村には、医術の心得のある者が少ない。
     不運なことに、その日、桔梗は探索の命を受け、村にはいなかった。子供達を診てくれる者を探し歩いた村人が最後にたどりついた処、それは折りしも居合せた龍斗と、神父である御神槌のいる礼拝堂だった。

     病人の容態はかんばしくなく、薬を求めて二人は小石川療養所へ行ってみることにした。

     例の事件から日数を経ているとはいえ、御神槌が療養所に出向くことに龍斗はためらいを覚えたが、他に薬や病に詳しい者もおらず、自分一人で使いができるかも心もとなく。やむなく神父様にもご同行を願ったというわけなのだ。
     しかし、そうした自分を、龍斗は後でひどく悔やむ事になるのだが。



     夜明け前、空も暗いなか鬼哭村を出た若者たちは、朝餉時には小石川に着くことができた。

     療養所の老医師は気さくに若者たちを迎え入れると、病人の容態を細かに訊ねた。その医師の問いに答えたのは、もっぱら御神槌の方である。
    「ふむ、食あたりの一種だろうな。それだったら手持ちの薬でなんとかなるだろう。用意ができるまで、しばらく待つがいい」

     話を聞くと、医師は薬を調合するため別室へと姿を消した。
     用向きを伝え肩の力が抜けたのか、龍斗は頭を掻き掻き安堵の息をついた。
    「お前が居てくれて、助かったよ。俺じゃ見当違いの事を言い出したかもしれん」
     どうも医者ってやつは苦手だという、ボヤきに近い声が続いた。
    「私でも、お役に立てたようで良かった。薬も手に入りそうですし、早く戻らないといけませんね」
     皆、首を長くして待っているでしょうから、と微笑んで御神槌は答えた。

     小半時ほど待っただろうか。
     やがて再び姿を現した老医師から、処方の心得と薬を受け取り代金を支払うと、謝辞を述べ、二人は屋敷の外へ出ようとした。

     玄関口の座敷まで来たところで、龍斗がはたと立ち止まった。もじもじしつつ御神槌に声をかける。
    「すまん。厠へ行ってくるからちょっと待っててくれ」
     先にしておけば良かったと、慌しく去っていく姿に御神槌は微笑した。どうも龍斗は緊張していたらしい。御神槌とはまた違った意味のそれだろうが。

     一人残されると、心細くなっている自分がいた。
     考えないように努めていたが、怖かったのだ。
     恐ろしい悲劇の残像が潜む、この屋敷の門をくぐるのが。
     ここには忌まわしい罪の記憶が眠っている。
     龍斗は御神槌が一緒で良かったと言うが。
     連れがいて心強かったのは、自分の方なのだった。
     そんなとりとめのないことを想いながら、御神槌が龍斗を待っていると──。

     老医師と誰かが言い合う声が聞こえてくる。
     不穏な空気に、療養所の閑静な気がかき乱された。

     患者らしき夫婦ものが、医師と一緒に姿を見せた。
     御神槌は外へ出ようとする彼らに、黙って道を開ける。異装の彼は人目を惹くはずだったが、彼らは自分たちの想いに手一杯な様子で、見知らぬ若者には全く関心を示さなかった。
     気遣わしげに、老医師が彼らに声をかけていた。

    「とにかくご妻女のためにも、酒は止めるんだ。お前さんの心がけが変わらなけりゃあ、治るものも治らんぞ。辛い気持ちは解かるが」
    「ケッ。医者なんて何にもできやしねェよ。うちの坊主はここで死んじまったんだしよ。俺のことなんぞ、もう放って置いてくれ」
    「あんたっ!ここの先生だって、精一杯手を尽くしてくれたんじゃないか!あんたの事だって親身に診てくれるお人に、なんて罰当たりを言うんだいっ」

     亭主の代わりに平謝りに謝る女と酒気を帯びた男が、御神槌とすれ違う。
     男は捨て台詞を残して、姿を消した。

    「何で俺たちがこんな目に遇わなくちゃならねェんだ。蛇の祟りなぞ、糞食らえってんだ」

     御神槌は衝撃の余り呆然としていた。
     暫くして、外へ出た男のすすり泣きと、続いて亭主をいたわり慰める女の涙声が、漏れ聞こえてきた。

     若者はゆっくり後を振りかえると、その場にたたずむ老医師に問いかけた。
     自分の声が、他人の口を借りたかのように話すのが聞こえた。

    「先生。あの方々は?」
     眉間に皺を寄せ、老医師は溜息まじりに答えた。
    「ああ。しばらく前に流行った奇病で、お子さんを亡くされたご夫婦なんだ。ご主人の方はなんとか助かったのだが……一人息子だったそうでね。儂はその時は居なかったんだが。後から聞いた話では、居たとしても役に立てたかどうか。助けたくとも、原因も処方も解からないのでは手の施しようがないからな。まったく、こういう時は医者だろうが何だろうが、無力なもんだ」

     祟りなぞ信じたくはないが、何でまたあんな奇病が起きたものか。
     そう呟きながら、中へ戻ってゆく老医師。
     後には御神槌だけが取り残された。
     大きくなる罪悪感。
     それに激しく心が動揺し、彼は恐慌に襲われていた。

     私なのだ。あの夫婦の不幸の原因は。

     足元が溶け、崩れ去ってゆく気がした。

    「おい、御神槌?どうしたんだ?」
     蒼白な表情で佇む仲間の神父を目にし、戻ってきた龍斗は立ちすくんだ。
     懸念に満ちた声が、戸惑いがちに投げかけられる。
     耳に木霊する夫婦のすすり泣きが、それに混じった。

     その声はどちらも彼処から来るもののように、御神槌の脳裏に虚しく響き渡った。



     鬼哭村への帰りの道中。
     澱んだ空からは、ポツポツと雨が降っていた。

     異装の僧服をまとった若者が黙々と足を動かす少し後を、いま一人の胴着姿の若者が離れないよう付き従う。
     連れが時々何か言っているのが、意識の表面をかすめた。
     後を歩く龍斗の表情は、御神槌にはわからない。
     彼が心配しているかもしれないとの思いは、頭の隅にかすかにあった。

     私は、大丈夫ですよ。

     そう言わねばならないのに、目の前も頭も霞がかかったようで、その思いは行動には結びつかなかった。

     どれだけそうして歩いていたものか。
     雨は、すでに止んでいた。

    「おい、御神槌。村だよ」

     龍斗に服の端をつかまれて、我に返る。
     いつの間に着いたのか。
     御神槌は、鬼哭村の礼拝堂の前に立っていた。
     そこでようやく、町に出た目的を思い出した。病気の子供達に薬を届けなければならない。
     足が動かなかった。

     この自分が子供を助ける……この血に塗れた手で?そんな偽善が許されるのか?先程会ったあの夫婦の子供の命を、その同じ手で奪ってしまったこの私が?

     そして、己が知らぬだけで、見ようとしないだけで。あの事件で子や親兄弟や親しい人を亡くした人達が、他にも否定しようもなく大勢いるに違いないのだ。

     うなだれる頭をやっと上げ、御神槌は龍斗を見た。
     彼の面にあるいたわりの表情に、胸を圧迫するような苦痛が酷くなる。

    (そんな眼差しを受ける資格は、私にはありません)

     一人になりたいという欲求が、胸に込み上げて来る。
     今は、ひたすらに誰の目にも触れない処に、己が身を隠したかった。

    「さあ、行こうぜ」
    「龍斗さん?」
     龍斗が彼を促す声がした。
    「早く行かないと。みんな、俺たちが戻るのを待ってる」
    「そ、そうですね」
     龍斗は気合を入れるように、御神槌の背をばしばし叩いた。

    「ほら、頼むからしっかりしてくれよ。お前がシャンとしてないと、助かる者も助からなくなっちまうぞ」
     お前が手を貸してくれないと、俺も皆もどうしたらいいのかわからん、と龍斗は困ったように言った。
    「はい……」

     叩かれた背の痛みと叱咤する声に、萎えていた心が定まって来た。
     そう、今は、しなければならない務めがある。何がどうだろうと、それはその後の話だ。

     御神槌は、深呼吸をすると、痛みを振り払うように首を振った。
     俯こうとする頭を上げ、彼を待つ視線に頷き返した。

     黒衣の若者は、先をゆく白い胴着の背中を追い、急ぎ足で歩きはじめた。



     薬が効いたか、半日看病した甲斐あってか。
     病人の容態はひとまず落ち着きを見せ、礼を述べる村人達に後を任せると、ようやく御神槌と龍斗はそれぞれねぐらへの帰途につくことができた。

     夕方も遅い刻限だったが、夏の日は長く、再び礼拝堂の前に二人が戻った時、辺りにはまだ黄昏の光が残っていた。
     肩をほぐしながら、龍斗はひとつ欠伸をした。

    「今日は、疲れたなぁ。でも、何とかなって良かったぜ」
    「そうですね」

     これもお前のお陰だと言って、龍斗は笑う。
     そんな彼を前に、御神槌は何か言わねばならないことがあるような気がした。
     そうだ。私の方こそ。

    「じゃあ、御神槌もゆっくり休めよ。また、あしたな」
     そう言い残すと礼を言う暇を与えず、龍斗は黒衣で包まれた肩を叩き、荷物を片手にそのまま屋敷の方へと去って行く。

     夕闇に消えていくその背を、ぼんやりと見送った。
     一人にしないで欲しい。やっと一人になれる。
     矛盾した想いを抱え途方に暮れる御神槌には、どうしたいのか自分でもわからなかった。
     襲いかかる虚脱感と寂寥感。
     暗さを増して行く空の闇が、止めようもなく頭上に重く圧しかかってくるのが感じられた。

     それに耐えつつ御神槌は疲れ切った体と心を鞭打ち、隠れるように礼拝堂へと歩みを向けた。体は思う通りに動いてはくれず、足はふらつき鉛のように感じられた。
     近くに見えるのにもかかわらず、神の家までの道程は、ひどく遠かった。

     龍斗が後ろを振り返ると――。
     肩を落とした神父の姿が、悄然と戸口の奥へと消えていくのが見えた。
     気を喪った後背が、危げな覚束ない足取りで。

     引戸が閉められたのを目の端に納めると、僅かにかぶりを振り、若者は九角屋敷へと続く道を足早に登っていった。



     その日の夕餉は、静かだった。
     天戒も九桐も桔梗も、必要以上の話は口にせず。
     龍斗といえば、上の空で味噌汁の具を眺めていた。

    「おいッ!なに湿気た面してんだよッ!飯が不味くなるだろッ」
    「ん?ああ、そうだな……」

     心ここに在らずといった風情で食事を始める若者に、風祭は更に苛々を募らせる。
     向かいの席を睨みながら、汁を掻き込んだ。

     食べ終われば、男達は早々に各々の居場所に引き上げてしまう。
     龍斗の姿がなくなるや否や、風祭は隣で白湯を手にする桔梗に、先程から咽喉元に引っかかっていた疑念を問いただした。

    「んったく。一体どうしたってんだよ、龍斗のヤツ」
    「まあ、巡り会わせの悪い日もあるってことさね」
    「何かあったのか?」
    「厳密に言えば、たーさんじゃなくて御神槌の方だけどね」

     龍斗が天戒に今日の事のあらましを報告した時、その場には桔梗と九桐も同席していた。村の重大事を双肩に担う頭領にとっては、一配下の悩みなど、取るに足らぬと言えるかもしれない。しかし、鬼哭村に住まう全ての者を案ずる彼らの主に限っては、些細とは思わないに違いない。天戒をよく知る彼らは、それを確信していた。

     そして徳川への復讐の誓いを捨てない限り、御神槌の苦悩は鬼道衆である者一人一人に当てはまる問題でもあった。彼らの胸中には複雑な想いが残り、深刻な気に場が淀むのは避けようがなかった。

     桔梗はせっつく風祭に、龍斗から聞いた事の次第を説明した。夕餉の間中、この坊やは仲間外れにされた気分で、悶々としていたのだ。

    「まさか、龍斗の野郎、自分が厠に行ったせいとか気にしてんじゃねーだろうな?」
     白湯をすすり、桔梗が答えた。
    「どうも、そうらしいね」
     風祭は脱力する。馬鹿か、アイツはと呟いた。

     御神槌にしろアイツにしろ、どーしようも無い事にいちいち悩むなよな。こっちまで滅入ってくらあ。

     聞くだけ聞くと、ぶつくさ言いながら少年は席を立つ。
     闘いに勝つことと、御屋形様への忠誠こそが、為すべき事の全て。そんな風祭にとっては、己が進路は単純明快なのだ。悩み多き者にとっては、羨ましい類の人種といえるだろう。

     そんな彼を横目に見やり、桔梗は僅かに口元をほころばせた。
     言い様は乱暴だが、少年なりに心配はしているのだ。
     ふっと、溜息をついた。
     今はそっとして置くより他はない。
     心配ではあるが、見守るよりほか御神槌にしてやれる事はなさそうに思われた。
     そして彼を信じるしかない。
     彼を信じ、少しでも彼の心が癒される明日が来るのを、信じるしかなかった。



     その御神槌は――暗闇の中にいた。
     寝食はおろか部屋の灯りを点けることすらも、絶望に囚われた彼の頭からは忘れ去られている。
     何かに縋るように、祭壇の前までたどり着いた後、崩れ落ちるように跪き。
     両手を組み、その手に頭をもたせかけ。
     祈りの姿でいながらも、祈りの言葉は胸にも口の端にも上る気配はなく。
     礼拝堂の内は、虚無の世界に支配されていた。

     こんな状態の者なら、限界まで磨り減らされた疲れ切った心身を癒そうと、何も考えずに泥のように眠りたいと思うはずなのだ。
     だが、眠りたくはなかった。
     眠れば、地獄の責め苦にも似た、悪夢に苛まれるのに違いないのだ。
     かつての夢では、自分を含め同志であった村の人々が、女子供ともども幕府の役人になぶり殺されていたのだが。

     最近の夢は違って来ていた。
     御神槌自身が殺した人々が、苦悶の中で彼に怨嗟の声を投げかけるのだ。
     何故、関係のない我らを苦しめるのか。
     何故、お前はこんな事をしたのか、と。

     するべき事がある間は閉じていた心の傷が、再び血を流しはじめ、若者の心身を苛みはじめる。
     その傷は他の誰につけられたのでもない。御神槌自身が己の魂に刻んでしまった、消えることのない罪の烙印なのだ。

     思い出したくはなくとも、走馬灯の如く心に去来するのは昼間の出来事。
     療養所で吐き捨てられた男の罵声。
     哀れな夫婦が慟哭し、すすり泣く声。
     村人たちが御神槌に寄せる、感謝を込めた喜びの声。

     違う。
     私はそんな人間じゃない。そんな言葉に値するような者ではない。
     自嘲に満ちた笑みが浮び、暗く翳る双眸が、祭壇の十字架に注がれる。

     ――犯してしまった罪は、洗い流すことはできない。

     いったんこぼしてしまった命の水を、元に戻すことはできない。
     解かっていたはずだった。
     後戻りはできない。
     御神槌の魂が神の居わす処から遠く隔たってしまったという現実は、もはや変えようがないのだと。

     龍閃組の若者たちとの遣り取りが脳裏に蘇った。

    (確かに幕府の中にも、許せねェ奴はいるだろう。だがな、そのために罪のない女子供の命が失われてもいいってェのか?)
    (復讐は主の望むものではないでしょう。それは、主の示される道から外れた行いなのではありませんか)
    (もしかしたら、貴方たちのいう様に、私は間違っているのかもしれません。でも……それでも私は闘いを止める訳にはいかないのです。たとえ、その為に多くの命が奪われようとも、それで徳川が滅びるのであれば……)


     私は、間違っていた。


     恨みと憎しみに心を委ね、復讐の為に幾つもの貴い命を売り渡し、己が魂を望んで闇に染めた。
     聞こうとしたのは、非業のうちに死んでいった、かつて愛した同志達の怨嗟の声のみ。
     己が非道から目を背けた。
     神を忘れた……そのために。
     魔に魅入られた御神槌の心弱さが、それがあの新たな不幸の数々を生み出してしまったのだ。

     生きている限り、それを忘れることは許されない。
     許されるとも、思ってはいない。
     許されることのないこの罪業を、御神槌は一生、背負っていかねばならないのだ。

     あれから幾度となく問い続け、問うても答えのない問いがある。
     自分は本当に生きていてよい人間なのだろうか?
     龍閃組の切支丹の女は、御神槌の声は神に届いていると言っていたが。
     やはり、天に御神槌の祈りが届くことは、もうないのかもしれなかった。


     主よ、この罪深い私が生き永らえるのを、あなたは許し給うのでしょうか?


     何かを求め、飢えるような眼差しが闇を見回す。
     闇の中を手探りして歩けども、行くべき道は見つからない。
     何処を探しても、光は見えず。
     御神槌は袋小路に佇んでいた。
     全ての道が、行き止まりだった。
     道がなければ切り開けばいいと、彼の剣士は言っていたが。
     暗闇に佇む御神槌には、何処へ向かって道を開けばよいのか見当もつかなかった。
     何処へ向かっても、堂々巡りをしてるような感覚だけがあった。
     このまま迷路から抜け出すこともできず、迷い進みながら彼は死ぬのかもしれなかった。

     私は何を求めて彷徨い歩いているのだろうか。
     私は本当は何処へ行きたかったのだろうか。

     気がつけば、それすら解からない自分がいた。
     こんな時は、死が残された唯一の道のように感じられる。死んだからと言って、己の罪が軽くなるわけでもないのだが。
     再び、何度訊いたか分からぬ問いを発する。


     ――神よ、あなたは何処に居られるのですか──


     夜の静寂に、彼の想いは神に届いているのだろうか。
     絶望の淵に沈む御神槌の時を止めたまま、漆黒の闇が彼を呑み込んでいた。



     夜半。龍斗は寝返りを打った。
     どうしても、目が覚めてしまっている。

     隣では布団をはね退け、体半分を露わにはみ出した風祭がぐっすりと眠っている。
     珍しく、寝言は言っていないようだ。穏やかな寝息が聞こえてくる。

     何の悩みもなさそうな、少年の平和な寝顔。それを眺める若者の口元に、笑みが浮んだ。
     眠りこけている彼を起こさないように布団を掛け直し、気配を殺して立ち上がる。着替えと掛布団を手に、音もなく座敷の外へと滑り出た。

     山の夜は冷え込む。
     着物を着替え、龍斗は礼拝堂へ続く道を急いだ。
     目指す建物へ着き、引戸に手をかけようとして、若者はためらった。
     《かんぬき》がかかっていないのは解かっている。
     村の誰もが何時でも来られるように、ここの主は日頃から横木を抜いたままにしているのだ。

     戸板越しに中の気配を探り、彼は小さく溜息を吐いた。
     御神槌は、まだ起きて祈りを捧げているらしい。

    (そもそも中に入っても、俺、何て言ったらいいのか解かってないんだよな)

     立ち去ることもできず、どうしたら良いかも解からず途方に暮れ、迷った挙句に礼拝堂の土壁を背にして座り込んだ。

     風が微かにそよぐだけの、静かな夜だった。
     星々が光り、満月に近い月が雲間から闇を照らす。
     空を見上げて、ふと思った。
     夜でも道を照らす光があるのだと――。
     閉ざされた戸板の向こうにいる哀しい友が、それに気づく日がいつかは来るのだろうか。
     静寂に耳を傾けながら、龍斗は壁越しにいる仲間の神父に心を馳せた。

     彼自身が己が目で見聞きし、その人となりを知る若者を信じる心。その気持ちに嘘偽りはない。かの神父の罪を知りながら、彼の全てを龍斗は否定したくはなかった。彼の罪は失ってはならぬものを失った、その哀しい心が生み出した業なのだから。

     御神槌は、自分の罪から目を背け、それから逃げる男ではない。
     罰を恐れる男でもない。むしろ死や罰を与えられた方が、彼の神父の魂は安らぎを得るのかもしれなかった。

     いや、彼は生きて己の罪業を目の当たりにすることで、すでに罰を受けているのだ。そしてその責め苦を甘んじて受けようとしている。
     そんな彼の姿は、龍斗には見るに忍びなかった。
     いっそ心弱き卑怯者であれば、彼はどんなにか楽だったろうに。

     いつか神か何かが御神槌に贖罪を求め、彼から全てを奪い去る日が来るのかもしれない。だが龍斗は神ではなく、御神槌に代価を要求する立場にある何かでもない。

     龍斗にとっては、御神槌は仲間なのだ。
     御神槌が失っていない大切な者を護りたいという汚れなき想い。友の胸に宿る他者を愛する心の灯。かけがえのないその光が踏み消されそうになるのを、龍斗は見過ごしにはできなかった。理屈抜きで護りたいと思うのだ。

     龍斗は手にした夜具を傍に置き、聖書を懐から取り出した。
     昼間の手荷物に混じっていたのに気づき、持ち主に返そうと持ってきたのだが。
     今は止めて置いた方が良さそうだった。
     月明かりでそれを開き、よく解からないままその文字をなぞる。経ならまだしも、聖書は龍斗には馴染みがなかった。

     神仏は何処にでもいる筈だから、ここに居てもおかしくはないだろう。
     己が神を拝むのと同じで良いのか解からなかったが、御神槌と一緒にいるつもりで彼の神に祈りを捧げてみる。一人より二人の方が、御利益があるかもしれないと思いながら。

     夜気は徐々に冷え込み、何時果てるとも知れぬ祈りは続く。
     どれほどの時が過ぎただろうか。夜のしじまに微かな寝息が聞こえてきた。



     夢うつつに何かが聞こえる。
     規則正しく刻を告げ、途絶えては続く鳥の声。

     ――かっこうだ。
     明け方の寒さに体を強張らせ、御神槌は身じろぎした。
     祈りを捧げるうちに、何時しかそのままうつ伏せに眠ってしまったようだった。
     身を起こすと同時に何かが体から滑り落ちる感触があり、ぼんやりとしながら、床に目を落とした。

     一枚の掛布団。

     あるはずのない、記憶にないそれに違和感を覚え、御神槌の意識は急速に覚醒した。
    (誰だろう?)
     とっさに室内を見渡したが、誰の気配もなく、姿も見えない。
     目に映るのは、篠の目の隙間から射し込む、夜明けの白々とした微かな光の筋のみだった。

     おもむろに足元に落ちる布を拾い上げ、御神槌は立ち上がる。
     辺りはひどく静かだった。
     時おり響く、鳥の声以外は。

     荘厳とすら感じられる朝の静寂を乱すのを恐れ、薄暗がりの中、御神槌はそっと引戸を開けた。
     淡い陽の光と、生気溢れる山の冷気がなだれ込む。
     濡れた土と草木の香が入り混じる澄んだ空気に、身も心も洗われる思いがした。
     ほの明るい朝靄に紛れ、村の家々が朧に浮かんで見える。
     そろそろ村人達も起き出す頃だろう。


     どんな時でも、朝は来るのですね。


     昨夜の身を苛まれる苦悩が嘘のように、己の心が平静なのが――不思議だった。
     昨日と今日とで、何かが変わったわけでもないのに。
     朝の喜びに満ちた世界にたたずみ、生きている自分が哀しく、諦めにも似た気持ちで胸が酷く痛んだ。
     霧深い谷底にいる自分にも、陽は光を注ごうとしているのだ。
     どうして世界は、こんなにも優しいのか。
     こんな私をも受け入れてくれるのか。

     光に誘われ、御神槌は外の世界へと足を踏み出した。
     途端に、左手に何かの塊があるのに気づき、はっとする。
     戸口の傍らで膝を抱えて座り込む、見間違えようのないその姿は。
     長めの前髪で半分隠れた瞼は閉じられ、一人の若者が礼拝堂の壁に斜めにもたれて眠っていた。

    (龍斗さん)

     雷に打たれたような衝撃が、背筋を貫いた。
     何時から、ここに居たのだろう。
     あの明けるとは思えなかった夜の寒さと闇の中、彼は一晩中ここで待っていたのだろうか。
     御神槌が、迷いの檻から、自ら作り出してしまった煉獄の闇の世界から抜け出して来るのを。
     彼の面差しから目を逸らすことができなかった。
     目頭がじんと熱くなる。

     思えば……自分が必要とする時に、彼はいつも「そこ」にいた。
     井上屋敷で、自分を追い駆けて来た彼。
     宿敵を殺す事もできず帰って来た自分に、まだ御神槌を必要とする者が、護るべき者が、帰るべき場所が残されていると教えてくれた彼。
     神はいる、と微笑んで答えた彼。

     思い出した。
     罪業に塗れた我が身であっても、もう一度、機会が与えられるのならば、この若者の傍で、今度こそ大切な者たちを護り抜くために、命続く限り闘おうと――自分はあの時心に誓ったのだった。神がこの命を召されるその瞬間(とき)まで。

     そして昨日も、自身の苦悩に耐えかねて誓いを忘れた愚かな友を、彼はあるべき道へ引き戻してくれたのではなかったか。あのまま為すべき責務を放棄してさらに何かを失ったなら、御神槌はいっそう自分を許せなかったに違いなかった。

     若者の静かな寝顔を見つめる。
     一つの想いが、心に浮かび上がってきた。


     ――神は、ここにいたのだ。


     彼の中に。
     彼を通じて、神は現れ、苦しみ迷う御神槌に、進むべき道を指し示してくれていたのではなかったか。
     自分が神を信じられずにいた、その瞬間にさえ。
     常に、神は御神槌の傍らに在った。
     御神槌にとっては彼の存在それこそが、神に与えられた奇跡だったのだ。

     地面には、龍斗の手にあったと思しき見慣れた装丁の本が、半開きになって落ちている。
     御神槌は聖書を拾い上げ、開いた箇所に目を落し、暫しそのまま瞑目した。
     彼を起こさないように手にした布をそっと掛けると、頭を上げ、戸口の向こうへ再びその姿を消した。
     今せねばならぬ事、したいと思う事の用意を整えるために。
     朝靄が晴れ行くにつれ、夜明けの空は急速に明るさを増していった。


     それから暫く後。
     礼拝堂ではいつもと変わらず、真摯な朝の祈りを捧げる御神槌の姿が見られた。

     そして風祭に蹴りを入れられた龍斗が目を覚まし、驚いて手に握りしめた掛布団は、いつかの朝露で僅かに湿り気を帯びていたという。





    ──愛は神より出ず、およそ愛ある者は、神より生まれ、神を知るなり
    愛なき者は、神を知らず、神は愛なればなり
    未だ神を見し者あらず、われらもし互いに相愛せば、神われらに在す
    神は愛なり、愛におる者は神におり、神もまたかれにい給う──

                         ヨハネ第一の書 第四章

               ※トルストイ民話集『人はなんで生きるか』より抜粋
                            (岩波文庫 中村白葉 訳)

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