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    鳥は放たれた

     
     記憶にも朧になりつつある、遠い昔。
     父と母と、そして優しい兄に囲まれ過ごしていた、懐かしい日々。
     幼かった自分。

     その頃の少女は、まだ何も知らない。
     巣から落ちた雛を待ち受ける、干からびた砂上での生。
     どこまでも続く渇きと、果てしなく広がる無明の闇を。


     ある日、紗夜は家の庭先で、鳥の雛を捕まえた。

     樹上から親鳥が見護る下、まだ飛べずに地を駆けまわっていた幼い鳥。その生き生きとした愛らしい姿と仕草は、ひとの子の関心を、ひどく惹きつけた。
     そして、その十数分後。
     不運だった雛の一羽は、逃れる方角を誤まったばかりに、家の軒下へと追い詰められ、ついには彼女の手のなかに納まる事となってしまったのだ。

    (どうしよう……捕まえちゃった)

     紗夜は途方に暮れた。
     本当に捉まえられるとは、思ってもみなかったのだ。
     空では、我が子を奪われた二羽の親鳥が、けたたましくさえずり、頭上を飛び交っている。それは、思い込みではなく、雛を奪った盗人に対する抗議の声に違いないだろう。

     すぐに逃してやるべきなのだと。
     幼いながらも、紗夜には解かっていた。

     でも、できなかった。
     手のひらの上で震える命は、あまりにも綺麗で暖かく、壊れそうに柔らかだった。今まで、憧れの眼で眺めているだけで、手に触れることも叶わなかった、手に入るはずのなかった可愛い小鳥。それが、手に入ったのだ。こんな機会は、二度と来ないかもしれない。せっかく手に入れた宝物は、あっさり手放してしまうには、あまりにも惜しかった。この愛すべき生き物を、どうしても、自分のものにしたかったのだ。

     少女は、空いている虫籠があったのを思い出し、物置小屋からそれを取ってくると、中に雛を入れ、虫籠を松の木の枝に下げた。それから、捕らえた獲物を誰かに見てもらおうと、家人の誰かを探しに、その場を後にし駆け出していった。


     午後の光が燦燦と降りそそぎ、木々の蔭が地に揺れる庭で。
     親鳥の鳴く声が、遠く、近くに、響いていた。


     暫くして、少女が戻ってきた時には、鳥はいなくなっていた。
     代わりにいたのは、空になった籠を手に、困り顔で佇む彼女の兄だった。

     「ごめんね、紗夜。鳥は、もういないんだ」

     逃した雛は、親鳥に連れていかれたのだと。慰め顔で、彼はいった。
     どこかホッとしながらも、気落ちして俯く妹の肩を、兄の腕が優しく抱き寄せる。
     暖かいその手が、彼女の額に、頬に触れ、涙を拭うと、栗色の柔らかな髪を繰返しそっと撫ではじめた。

     「鳥は籠の中では、生きられないんだよ。仲間たちのところへ、返してやらないといけないんだ」

     そう言って顔を覗き込んだ、兄の優しい瞳を、穏やかな声を、さらりとした手の感触を、芳しい日向の匂いを、肌を掠めるそよ風を、透けるような陽の煌きを……

     安らかな温もりに包まれていたあのときを。


     紗夜はまだ、憶えていた。



        鳥は放たれた



     俺を惹き寄せたのは、綺麗な歌声。
     寄り添って包み込んでしまいたいような――
     哀しみの匂い。彊くて儚い、か細い後姿だった。


    「わたし、好きなひとがいるの。本当に……ごめんなさい」

     無機質に小さく発せられたその声は、音楽室の静寂を割り、大きく反響した。
     栗色の髪をした少女の手には、封を切っていない一通の手紙がある。
     彼女の前に佇む一人の男子生徒は、身動ぎもせず、白い封筒に眼を落としていた。
     やがて差し出されたそれを彼が受け取ると、少女は同時にぴょこりと頭を下げた。
     眼を合わせようとせず俯いてはいても、彼がじっと自分の顔を見ているのが、紗夜には解かっていた。
     無言のまま、逃げるように場を離れようとするその背に向かって。
     低く乾いた声が、躊躇いがちに後を追いかけた。

    「お、お前……本当に、好きな奴がいるのか?」

     お前は、本当に大丈夫なのか?
     お前のこと、護ってくれるやつができたのか?
     お前は、もうあの哀しい唄を――
     『恋唄』を、歌わなくてもよくなったのか?

     俺は、お前のこと──

     声なき声が、少女に届くことは、終になく。
     靴音は、足速に遠ざかり、そして消えた。
     受け取られずに擦れ違った想いを、置き去りのままにして。


         ◇ ◇ ◇ ◆ ◇


     五月晴れの良い天気だった。
     陽気はぽかぽかと暖かく、乾燥気味の埃っぽい街の空気に混じって、樹木の緑が爽やかに香った。公園で遊ぶ子供たちの笑い声が、行き交う車の排気音に透けて聞こえる。
     紗夜はひんやりとした地下道に降り、地下鉄に乗った。
     新宿三丁目で下りる。
     そして、人の流れのまま、人込みに押し出されるままに、歩調を合わせ歩き出した。

     携帯が震え、小さな声が応える。電話で指示された場所に移ると、紗夜はいつものように「彼ら」が現れるのを待ち続けた。

     それから数分後。

     ――来た。

     「彼ら」……真神学園の五人の男女。
     笑いさざめきながら光のなかを歩く、眩しいひとたち。
     彼らが歩いているだけで、其処は花々の咲きほこる、明るい陽だまりとなるように見えた。

     「用事」とは別に、紗夜は彼らを見るのが好きだった。
     その気分は、澄んだ水の中をのびのびと自由に泳ぐ綺麗な魚を眺める時のような、そんな感じと、どこか似ていた。

     (お魚になりたいな)

     と、わけもなく思う。
     生き生きと煌き輝く、「彼ら」を見ると、胸が痛むような、何かを感じるのはなぜだろう。

     その中の一人。彼が標的として執着している人物。
     中肉中背の体形に、軽い身のこなし。整ってはいるが、どちらかと言えば平凡で素朴な印象の顔立ち。
     付かず離れず友人たちを見護り、彼らから見護られ、後ろを歩く一人の青年。

     (緋勇龍麻)

     「彼」の名を舌の上で転がしてみる。
     神経を集中させ、眼をこらし耳を澄ませた。
     こんな風に、彼の姿を笑顔を眼で追うようになったのは、いつからだろうか。
     彼の話す快い声音、深みのあるバリトンに耳を傾けるようになったのは。
     「彼」を観察し注意するよう指示されていたから…ただそれだけの事かもしれないけれど。

     それだけではなく、彼を探すようになったのは。
     「彼に逢えるかもしれない」と、淡く期待している自分の感情(こころ)に気づいたのは。
     胸に揺らめく、不可思議な想い。
     この感情を何と呼ぶのか。
     少女自身にも、それは解からない。

     あの人たち……あのひとは、わたしとは別世界の人なのに、な。

     信号が変わった。
     紗夜はひとつ深呼吸をすると、「彼」との距離を測りながら歩き出した。
     初めて遭った時のことを思い出す。
     「A BOY  MEET A GIRL
     かくも恣意的な出会い。
     あれを運命の出会いと言ったなら、愛の女神は冷たく嘲笑するだろうか。

     蜘蛛みたいだ、と紗夜は思った。
     糸を吐き出し、獲物を絡めとる女郎蜘蛛。
     逃れようともがく羽虫。
     もがれ落ちる透き通った羽根。
     もつれた糸の先。

     蜘蛛に捕らえられた羽虫の運命は、ただ一つしかないのだから。


         ◇ ◆ ◇ ◇ ◇


     夕刻、街灯や家の窓辺に、暖かい灯がつきはじめる頃。
     スーパーで夕食の買い物を済ませた紗夜は、ようやく家路についた。
     どこまで行っても家家が立ち並ぶ住宅街の一角、目立たない古びたアパートに、九年前から紗夜は兄と一緒に住んでいるのだった。

     親戚の家に身を寄せていた妹を、高校を卒業し独立した兄が迎えに来たとき、七歳の少女にとってこの家は王子様の住むお城のように見えたものだ。
     今では、ある「仕事」に取り憑かれるようになってからは、兄は「仕事場」に入り浸り、このアパートに帰ってくる日も少なくなった。独りでいる方が、紗夜も気が楽なのだった。

     だが。今日は窓に明かりが見えた。
     鍵を開けて家の中に入ると、玄関には靴があり、居間のソファには足を伸ばして雑誌を読む死蝋の姿があった。

    「おかえり、紗夜」
    「――うん。兄さん、ただいま。……夕ご飯は?」
    「あァ。先に済ませたから、それはいいよ。そうだ、冷凍庫に入れといたビールがもう冷えてるかも」
    「見てみるわ」

     台所に荷物を運ぶと、袋の中身を確かめつつ、冷蔵庫に食材をしまう。
     自分一人のためであれば、それほど料理に手をかける必要もなかった。
     乾き物とグラスと缶ビールを用意し、ソファの前にあるテーブルに運ぶ。
     封を切り、中身を注ぐ。
     凍る寸前まで冷えているせいか、泡はほとんど立たなかった。

     相手の勧めに従い、紗夜は言われるままにその場に座り込むと、グラスを手にした。
     気がすすまないながらも、口をつける。
     この苦い金色の液体は紗夜の口には合わないのだが、それでも咽喉に飲みくだした。
     死蝋はそんな少女の様子を、どこか落ちつかなげに横目で見守っていた。

    「それで、今日はどうだった?紗夜?」
    「う、うん。きっかけがつかめなくて……あのひとと話はできなかったわ」
    「そうか。今度は、僕が彼と話をしてみようか」
    「?」
    「新宿には、彼らが出入りしている、その筋では有名な面白い病院がある。普通でない患者を診ている特殊な病院がね。そこに張り込めば、いつかは彼らと遭えるかもしれない」

     男は残りの酒を飲みほした。
     興味深げな眼差しが少女の方を見やった。
    「今まで見てきた感じで、紗夜は彼をどう思う?」
     男の熱っぽい視線に促され、紗夜は仕方なくためらいがちに答えた。

    「どうって。特に変わったところもないし、普通のひとだと思うけれど」
    「フフフ……普通、ね」

     死蝋は相好を崩し、とくとくとビールを注ぎ入れると楽しげにグラスを傾げた。
     背もたれに寄りかかると、液体を口に含む。

    「紗夜。お前には解からないかもしれないが。『彼』は特別な人間なのだよ。彼の中には『人間以上』の≪力≫が秘められているんだ」

     ――僕は、彼のことをもっと知りたい。

    「研究を完成させるためには、『彼』の協力を得ることがどうあっても必要なのさ。だから、僕は出遭いのきっかけをつくりたい。そのために、紗夜、お前の力を貸してもらいたいんだ…だから。――――頼んだよ?紗夜」

     眼を伏せ、無言でいる少女へと向かって。
     グラスはテーブルに置かれ、するりと二本の腕が伸びてきた。
     何気なくごく自然に、ゆっくり紗夜の髪を梳いていた右手は、掠めるように肩から首筋、頬へと伝い、同時に左手が制服ごしに双丘へと触れた。びくりと肩が震える。反射的に逃れようとよじれた腰が引き寄せられ、もがく躰を、死蝋の腕が、今度は半ば強引に背後から、柔らかく抱きすくめた。

    「あ……やッ……!!」
    「動いちゃだめだよ、紗夜」

     慣れた仕草で、長くしなやかな指は、衣越しの柔らかな肉の感触と震えを楽しみはじめた。胸の頂点を故意に掠める、確かめ探るような指の動き。抗うことを止めた少女の唇からは、耐えきれず細い声が漏れた。死蝋の手から導き出される感触に、馴染み過ぎ蝕まれた躰は、今では持ち主の意のままにはならなくなっていた。
     薄紅色に染まる頬、次第に深まる吐息。
     腕のなかで、無防備に力を失いつつある四肢の反応を眺め遣りながら、死蝋は満足げに小さく笑みを漏らした。

    「う……!」
    「……いいかい?」

     相手の返事を待たずに、制服を引き裂かんばかりに、上下から手が差し入れられ、巧みな指先が乳房と内股をまさぐり、揉みしだき、直接に熱い躰の内外を浸蝕しはじめた。されるがままになりつつも、せめて声は出すまいと、下唇をかむ少女。

    「兄さん……わたし、いつまで……こんなことをしなくちゃ……いけないの?」
     喘ぎのなかで、声が呟く。

    「こんなことって?なんだい?」
     言葉と同時に荒々しく変わる動きに、息を呑み殺す。

    「病院から……亡くなったひとを連れ出したり」
     語尾が力なく小さくすぼまった。

    「大切なひとの身体がなくなってしまったら……遺された人たちはきっと悲しむわ」
    「なんだ、そんなことか」
     男は咽喉の奥で、ククと嗤った。
    「死んでしまったものは、ただの物にすぎないよ」

     心臓が、脳波が止まったその瞬間。
     人間(ヒト)の存在は、無に帰る。
     死んで無価値になった肉体を、僕は有効に再利用しているだけなんだよ?
     と、男は軽い調子で答えた。

     待ちきれなくなったのか、動きが速まる。
     与えられる刺激に耐えつつ、震える声が続いた。

    「でも、せめて、遺体をお墓に入れてあげたいと……」
     突き上げる動きに、喘ぎは小さな悲鳴に変わる。
     薄い笑みが眼の前にあった。
    「それが、そんなに大切なことかい?」

     死んでしまえば、皆同じ。それでもうお終いだ。
     死んだ後、体がどうなろうと、それはたいした問題じゃあない。
     そうは思わないか?紗夜?

     答えはなかった。
     期待した反応が得られずに、死蝋は苛ついたようだった。
     低められた声が続く。
    「それじゃあ、墓のない母さんたちは、どうなったというんだ?」

     炎上する飛行機のなかで、傷つき焼き尽くされ、埋葬されることもなかった二人の身体。彼らの魂は?

     固くなったその体を宥めるように、死蝋の動きは再び優しさを取り戻した。
    「僕が、信じられないのかい?」
    「……」
    「紗夜……僕にとって大切なのは、お前だけだ。お前にとっても、僕だけだと、そう、思っていたんだけどね」
     穏やかな声音とは裏腹に、烈しくなる愛撫に声が抑えきれなくなる。
    「う……あ!!」
    「違うのかい?」
    「……にいさん」
    「『影司』だ……紗夜」

     唇を塞がれ、途切れがちな吐息も、貪り吸われて消えてゆき。
     容赦なく打ちつけられる官能の荒波に、紗夜の精神と肉体は、翻弄され蹂躙され引き裂かれ喰い尽くされる。陥ちるまいと縋りつこうとする手が背に爪痕を残し、虚しく空を切る。世界はぼやけ、歪み、崩れ落ちてゆく。

     言葉はいらない。心もいらない。
     頭などいらない。
     そんなものは、あっても邪魔なだけだ。
     在るものは、この一刹那。今生きて悦びを感じる、この体だけでいい。
     そして、深い闇が訪れる。

     (わたしのかえるところは、ここよりほか、どこにもない)


         ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


     日課が一通り終わり、片付けも済んだ後。
     自室に戻った紗夜は、布団に潜り込んだ。
     身体の芯が、沁みるように、じんわりと痛む。
     シンと、壁の向こうにある暗がりを見つめた。
     毛布をかき抱いた。
     無意識のうちに、枕元の写真立てに伸びる手。
     思い出の中で、じゃれあい屈託なく笑いあう、十五歳の少年と四歳の少女。
     薄明かりを透かして、乾いた瞳が幸せそうな二人を無感動に眺めやった。

     「お兄ちゃん」は、何処にいったのだろう?
     此処にいる「あの人」は……いったい誰なのだろう?

     壊れてしまったモノは、もう元には戻らない。
     壊れてしまったヒトは、もう元には戻らない。

     「英司」お兄ちゃんは、もう何処にもいないのだ──。

     微かにくぐもった嗚咽が洩れた。
     涙は出ない。
     諦めることなんて、慣れている。ずっと前から解かっていたはずなのに。
     どんなに望んでも、手に入らないものは得られないって。
     愛や希望なんて、無いときにはどうしようもなく、無い。
     お父さんとお母さんが生きていれば。
     お兄ちゃんがお兄ちゃんのままでいてくれたなら。
     焼け縮れゆく父母の身体を見続けた炎の記憶、その後、引き取られた親戚の家で虐待を受けた三年間が、兄さんを取り返しようもなく壊してしまった。
     過去の幸せに戻る希望がなくても、壊れた現実を抱いて、私はただ歩いていくしかない。
     いっそ、希望などない方がいい。
     残酷な夢には、もう、耐えられない。
     暖かさを知らなければ、寒さもない。
     初めから眼を閉じれば――光を知らなければ、闇もまたない。

     掛布を握り締め、暗闇に固く眼を閉じた。

     それなのに、そうだと解かっているのに、私は今さら何を欲しがっているの?
     この写真だって、捨ててしまえば、忘れてしまえば、楽になれるのに。
     精神(こころ)だって身体(からだ)だって、感じなければ……死んでしまえば、楽になれるのに。
     奇跡でもなければ、壊れた物が元に戻ることなんてない。
     ≪時≫が巻き戻るように、壊れたものが、死んでしまったものが元に戻ることなんて

     そんな奇跡は有り得ない。

     奇跡があれば、愛する人を失うことなんてないのに。

     けれども、そう言ったら――あの日。
     きれいに晴れた、6月のある昼下がりに。
     「彼」は言ったのだ。
     彼の穏やかな声が、今も耳に残っている。
     奇跡は……


     「奇跡」は、あるのだと。


         ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


     ――奇跡はあると思うよ。

     ……え?

     俺、奇跡だと思うんだけど。比良坂自身が。

     よく、わかりません。

     君が飛行機事故で助かったのは、奇跡の生還ってやつだって!
     これ以上の奇跡はないんじゃないか?

     そ、そんな……。

     お父さんとお母さんの想いが、奇跡を起こしたんだよ。
     きみを護りたいって。生きていて欲しいって。
     大切なひとを失わないように。
     それが――お母さんたちの、最後の、ただ一つの願いだったんだよ。
     きっと。

     そう言って、「彼」は微笑んだ。


     だから、君が生きて、こうして俺たちが出逢ったのも
     ひとつの奇跡。

         ――1998年6月24日 しながわ水族館にて――


     あの日、写真を捨てたのは、私には持つ資格がなくなったから。
     あの日、貴方に笑いかけながら、私は、貴方も自分も兄さんも、残されていたかもしれない何か大切なもの、その全てを裏切っていたのだから。

     そして、鳥が籠に捕らえられた、運命の日。

     許して。
     あなたが来てくれるという期待に、来てくれた悦びに。
     恐れながらも胸を震わせた、身勝手で醜いわたしの心を。


         ◆ ◆ ◇ ◆ ◆


      ――廃屋の地下。
      現世から隔絶された、異形のモノ共が蠢き絡みつく、闇の世界。
      地上の光も届かない、常しえに続くほの昏い闇に捕らえられた一つの命。

      「彼」は、今、死人使いの腕のなかに在った。

     死蝋はクロロフォルムで意識を失い、ぐったりとした「彼」の体を抱きかかえ担ぎあげると、廃屋地下にある生物研究所の一室へと運び入れた。
     拘束台の上に身体を横たえ、スイッチを入れる。
     耳障りな電気音とともに、四肢が鋼鉄の金輪に束縛される。
     当座凌ぎの睡眠薬だ。すぐにでも覚めてしまうかもしれないからと、死蝋は肩をすくめた。

     その間中、自らの罪に慄きながら、それでも紗夜は習慣的に兄の後を追う。
     足元を襲う浮遊感。
     己の意識は何処かに、置き去りにされているような気がした。
     そんな助手の様子に気づいているのかいないのか、死蝋は悦びの表情を滲ませながらも、淡々と機械的に準備を進めていた。紗夜にも手を貸すよう促す。

    「さてと。紗夜、採血の用意だ」
    「え?」
    「血液検査だよ」

     左右の腕が代わる代わる調べられ、皮静脈の位置が確認された。右腕が取られ、関節部の表皮が消毒される。ぷすりと針が打ち込まれ、ガーゼとテープにより固定された。
     腕、そして針から続く透き通った管。それが順に赤く染まり、半透明な容器に液体が迸る。赤黒い液体が、ひたすらに滾々(こんこん)と量を増していく。
     白衣の男は眼を細めつつ、その様を黙って見つめていた。

    「まだ続けるの?これ以上したら、彼――」
     意識はないはずだった。だが、血が迸り続けるほどに力も流出し、彼の表情が白く苦悶の色に深く染まっていくかのように思えた紗夜は、耐え切れずに、つと顔を背けた。

    「フフフ……まだだ。まだ限界じゃあない。極度の失血状態にしておけば、彼といえども動けなくなるだろう。少なくとも、行動力が減殺されると期待できるしね。これから検査を進めるにしても、無用な薬物の影響は、なるべく避けるに越したことはない。被検者のコンディションは、常態に近い方が望ましいからね」

     覚えず、唇からは制止の声がこぼれ出た。
    「にいさん……。もう、止めて」
     白衣の男が、怪訝そうにこちらを向いた。

    「何を心配しているんだ、紗夜?またとない貴重な研究材料なんだよ、彼は。――殺しはしない。必要以上に体を損なうような不手際を、この僕がするわけはないだろう」

     違う。

    「人の体内には4、5リットルの血液がある。15%程度なら、採血しても全く問題はない。この程度の失血で人間は死にはしないよ。ましてや彼は――」

     違う。
     そうじゃないの。わたしが言いたいのは、そんなことじゃないの。

    「生命維持のため必要最低限の血は残しておくさ。彼の力は、まだ計り知れない。薬物に対しても常人離れした抵抗力があるようだが」
     虚ろに向けられた青白い顔を顧みようともせず。
     自らの思念に陶酔しつつ、白衣の男は語り続けた。

    「血だけでも並外れた生命力を感じる……まだ、熱いな」
     薄い唇に浮ぶ笑み。
    「僕は、暖かいものが好きなんだよ」

     冷たいものより、暖かいものが。
     固いものより、柔らかいものが。
     動かないものより、動くものが。

     死んだものより、生きているものが。

     話すうちにも、血は徐々に冷えていく。
     男は惜しそうにわずかに口元を歪めると、採血を止め、腕から針を引き抜いた。

    「ひとつ問題なのは、暖かくて生きているものは、変わってしまうということだ。なぜ、そのままではいられないのだろうね?」
     手早く止血作業にかかる紗夜を横目に、男は、新鮮な液体で膨れ上がった容器を指で弾いた。

    「僕は全き道を探しているのさ。不可能が可能になり、傷ついた者は癒され、老いることもなく、死んだ者は蘇える道を、ね。奇跡があれば、愛する者を失うこともない。フフフ……そして、皆が幸せになる。神の領域への大いなる挑戦だよ」

     奇跡があるなら……本当にあるなら。『兄さん』は帰ってきてくれる?

    「死んだものより生きているものがいいね。死者に命を吹き込むのは素敵だ。この研究が進めば、いつかは死を超越できる。不老不死になる道が開けるに違いない。そうしたら、思い通りにならないことなどなくなる。運命に縛られることもない。僕たちは、世界に君臨することができるんだよ」

     わたしは世界なんか、いらない。
     ただ、好きな人と普通に幸せに暮らしたいだけなの、兄さん。

    「ヒトの内に秘められたる大いなる力。興味をそそられるね。いずれは、彼も僕に感謝するだろうよ。僕の研究に力を貸すことで、緋勇くんの内に眠る潜在能力は開花し、彼は人間以上の存在となる。彼にとっても新しい可能性と未来が拓かれるのだからね」

     「彼」に、何をするの?どうしようというの?

    「関心を持つというのは、大切なことだ。全ての可能性は其処から生じるのだから。無関心は、罪だ」

     もの柔らかな口調ではあったが。
     真綿の内に潜んで、刃が鈍い光を放っていた。

    「例えば、僕がいい例だ。医者か研究者になりたかったこの僕が……ふん。現実はしがない一介の高校教師にしかすぎない。金も力もなく、僕に関心を持つ者は誰も居なかった。あの学園の理事長が、埋もれていた僕の類なき能力と≪力≫に目を留め、手を貸してくれるようになるまでは、ね。彼の援助がなければ、僕の研究者としての才能は閉じられたままだったろう」

     その方が良かった。
     口に出しては、決して言えないことだけれども。

    「最低限の衣食と寝場所を与えられるだけというなら、動物並みの扱いだよ。飼い主から誉めたり叱ったりされるのなら幸せだろうね。生きようが野たれ死のうが、誰にも気づかれることすらなかっただろう、昔の、あの頃の僕らに比べれば」

     同意を求め、注がれる熱い視線に。
     紗夜はたじろぎ、俯き視線を逸らせた。

    「捨てられた種、誰にも顧られずに踏みにじられてきた芽であってもね。見出され、栄養を与えられれば、どうだ?ククク……大輪の花を咲かせて、踏みにじった奴らを見返してやれるんだよ」

     乾いた声が問いかけた。
    「兄さんは……今、幸せ?」

     満ち足りた笑顔が答えた。
    「ああ、幸せだとも。僕はお前を見つけるまでは、ずっと独りで冷たい場所にいた。今では、手を伸ばせば……ほら、いつでも暖かいものに触れられる。紗夜、お前がいてくれる」

     だから、わたしは逃げられない。
     たとえ、残骸であっても、これは――この人は。

    「……兄さん」

    (どうして、なぜ、こんなふうになってしまったのかな)

     男は、満足した様子だった。目の前にいる少女が何を考えているかなど、彼にはどうでもいいことなのだろう。思い通りになる存在が傍に在れば、それで彼は十分に満ち足りているのだった。
     そして、途方に暮れる想いは、行き先を見失い、闇に閉じ込められるのだ。解放される望みのないまま、変わることなく永遠に。

    「レントゲン室へ行く。暴れる心配もないから。紗夜、彼を着替えさせてくれ」

     終わったら、疲れただろうから休むようにと、男は機嫌よく声をかけてきた。
     紗夜は無言で頷くと、彼の指示通り動きはじめた。
     かつて見たこともない楽しげな表情で作業に没頭する「それ」、死人使いの男を、見ないように努めながら。

     心に麻酔をかけて眠ってしまいたいと烈しく願っても、その望みは今もまだ叶わないのだった。
     これから何が起こるか、紗夜はもう知りたくはないと思っていた。

     着替えが終わった後、「彼」の学生服を片付けようとした、その時。
     床に落ちたものは、一枚の写真だった。
     紗夜は写真を拾いあげ、眼を伏せると、そっとそれの埃を拭い、胸ポケットに滑り込ませた。


         ◆ ◆ ◇ ◇ ◆


     「彼」が来てから、紗夜は地下の研究所にはいたものの、自室に引きこもり「検査室」へは近寄ろうとはしなかった。
     死蝋の方も「検査」に没頭し、時おり雑用を言いつける以外、紗夜の挙動を気に留めることはほとんどなかった。
     彼は今、どうしているのか。どうなっているのだろうか。


     「彼」が此処へ来てから一昼夜が過ぎたその夜のこと。
     紗夜は夢を見た。
     色のない白と黒の世界。
     夢の最後、目の前に染み広がる、昏い緋色。
     冷たい寝汗とともに目が覚めた後、再度、同じ夢に襲われる。
     いや。同じではない。
     それは、結末の違う、ふたつの悪夢だった。

     ――それとも、幸せな夢だったろうか。

     拘束台の上に、「彼」は横たわっている。
     蒼ざめ憔悴しきった顔で力無く眠る「彼」、壊れた人形のような変わり果てたその姿を前にして。
     体の芯が冷たくなり、呆然と彼に取り縋る。
     叫びだしそうになる衝動を、押し殺した。

     彼を縛る鋼鉄の拘束具。
     それから力任せに逃れようとしたのだろう。その周りは皮膚が裂け、肉の切れ目からは血が流れ出ていた。
     血臭と入り混じり、異臭が立ち込めるとろりと淀んだ空気。
     見るに耐えない、紅く汚れ歪んだ世界。
     ホルマリン漬けの猿が、双頭の犬の眼が、ガラス越しに紗夜を見ていた。

     「龍麻さん……今、それを外してあげますから」

     ぞくりと背後の気配に振り向くと、メスを弄びつつ死蝋が楽しげに嗤っていた。
     手にした刃物を紗夜に渡す。

     さあ、紗夜。普通の明るい世界にいるのは辛く苦しいのだろう?
     解かってる。
     お前の苦しみは僕の苦しみでもあるのだから。
     お前の全てと繋がっているのは
     お前の全てが解かっているのは
     お前の全てを知って、本当に愛しているのは
     僕だけなんだよ?紗夜。

     お前は誰にも必要とされない。いらないモノなんだよ。
     お前を必要としているのは、僕だけだ。
     傍にいてくれ、紗夜。
     お前に残されている最後の居場所をなくしたくないなら
     もう二度と独りになりたくないなら
     僕と一緒に、これまで通りに、変わらず安らかに暮らしたいなら……


     彼を殺すんだ。


     僕にはお前しかいない。
     お前にも、僕しかいないんだよ?紗夜。


     (キーン)


     飛行機の爆音にも似た、大きな音が続き、頭が割れるように痛くなる。
     刃物は、弧を描きゆっくりと紗夜の手から滑り落ちていった。
     虚空に響き渡る、耳を衝く錆びた金属音。

     死蝋の顔が嫉妬と憎しみに黒く歪んだ。

     お前が殺らないなら、僕が殺す。
     僕たち兄妹の邪魔をする奴は、皆、死ねばいい!!

     「彼」の前に、人形(ひとがた)をした巨大な怪物が現れた。

     (龍麻さん!)

     紗夜は「それ」から彼を護ろうと必死だった。
     彼の上に覆いかぶさり、覚悟を決めてかたく眼を瞑る。
     走る、閃光。

     ――そして夢の世界は暗転するのだ。

     最初の夢では、「彼」が死んだ。
     「彼」を護ろうとした紗夜を、身を賭して庇った彼は。

     次の夢では、「紗夜」が死んだ。
     「彼」の腕に抱かれて、「紗夜」は死ぬ。
     「彼」は紗夜を護れなかった。

     二度目の夢では、紗夜は拘束具を外すタイミングを遅らせたのだ。
     初めの夢を繰り返さないために。
     彼が紗夜の盾とならぬように。
     なぜなら。
     私は……わたしは。
     ただ、夢であっても。
     夢にすぎないこの世界にあっても、ただ、彼を救いたかった。


     ──龍麻さんに、生きていて欲しかったの。


         ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


     (トゥルルルルルル)

    「ああ、貴方ですか」

     (ピー)

    「そろそろ連絡される頃合だと思っていましたが。こちらは万事順調に進んでいますよ」

     (ピー)

    「基礎データとサンプルは後ほど。うちの設備では、これが限界なので。ええ、助かります」

     (ピー)

    「そうですか。対になる卵子サンプルはまだ見つかりませんか」

     (ピー……ピピー……)

    「卵を割らないとオムレツは作れませんからね。科学の発展には常に代償がつきものなんですよ。貴方にもお解かりかと思いますが」

     (ピーピーピーピーピーピー)

    「心配なさらずとも、予後は良好ですよ。この程度の創傷や火傷なら、放っておいても、24時間もあれば完治するでしょう…彼の治癒力からすれば。明後日には、傷ひとつない状態でお引き渡しできます……ええ」

     (……………ピー)

    「解かりました。では、こちらも納品準備にかかるとしますよ。それでは、お待ちしています……フフフ。よろしく、学院長」

     (ピー)


     (ピー)


         ――1998年6月28日 PM 11:00
                  廃屋地下生物研究所にて――


         ◇ ◇ ◆ ◇ ◇


     青年がこの地下研究所に監禁され始めてから、三日が経とうとしていた。
     自室から抜け出した紗夜の足は、恐れためらいつつも、ある場所へと引き寄せられていた。
     検査室の扉を細く開け、中の様子をうかがってみる。
     彼が拘束されている室内に、死蝋の姿はなかった。
     不眠不休での作業に限界がきたのだろう、研究室の主は別室の簡易ベッドの上で、深い眠りに落ちているようだった。

     紗夜は死蝋に気づかれないよう、静かに「検査室」の扉を開けると、拘束台に近づき、「彼」を見守った。
     連日の「検査」で弄ばれ、衰弱しきった肉体が、目の前に横たわっていた。
     夢で見た彼と同じように……それ以上に。

     これが、現実。

     彼が此処にいて、こんな目に遭うのは、自分のせいなのだ。

     どうしようもなく居た堪れない想いで、紗夜は俯いた。
     今も、せめて彼に何かしてあげたいと思うのは、自分のためなのだった。
     何をしても、許されるはずはないと解かってはいても。

     拘束台の脇にある四角いスイッチを押すと、鈍い電気音が唸り、ついで拘束具が外れた。
     今、「彼」は自由の身となっていたが、意識のない体は動こうとはしなかった。
     彼のために紗夜ができることは限られており、傷の手当も意味のない気休めなのかもしれなかった。が、それでも紗夜は注意深く傷口を消毒し直し、体を清め、緩んだ包帯を替えはじめた。

     傷ついた男を手当てする紗夜の姿は、傍目には白衣の天使に見えるのかもしれない。
     だが、現実は違う。天使という存在とは天と地ほどにも違う。
     自分で作った傷を必死で繕おうとする行為は、ひどく皮肉で滑稽だった。

     看護婦さんになりたいなんて
     誰かを救いたいなんて
     そんな夢も、叶うはずもない。

     死者と生者を共に冒涜した者には、そんな資格は、もうないのだ。

     ふと、「彼」が身じろぎした。
     ひび割れ乾いた唇が動き、重くかすれた声が微かに漏れた。
    「……みず」
     紗夜は急いで水差しを取ると、そっと彼の口に押し当てた。
     だが、衰弱のためか麻酔で意識が混濁している所為か、水差しを傾けても、注がれる水は飲み込まれることなく顎を伝い、無用に簡易枕を濡らしてしまう。
     少しの逡巡の後、紗夜は水を口に含むと、かがみこんだ。
     栗色の髪が揺れ、彼の頬にかかる。
     口内に液体が満ち溢れ、反射的に喉が動き、水が無事流し込まれたのを確かめると、紗夜は頭を上げ、息を吐いた。
     もう一度、飲み口を押し当てると、少しずつ水をむさぼった。
     と、瞼が動き、不意に開かれた。何かを探すかのように所在なくぼんやり彷徨っていた双眸が焦点を結び、少女のそれを捉える。

     生気を喪い、蒼白く憔悴しきった顔。
     その口元がわずかに緩み、彼は……微かに笑った。
     彼の言おうとしていることが、なぜか、わかる。

     すまない。

     青年の瞳に、紗夜は胸を衝かれた。
     闇の中で消え入りそうになりつつ、残された力を振り絞り、放たれる暖かい光。
     鋭利な刃物で胸を抉られるような灼熱の痛み。
     切り裂かれるような痛みとともにに思い出される、懐かしくも慕わしい忘れられないこの色は。


     わたしは、この眼を知っている。


    (ここは、危ない。早く……逃げるんだ)
    (紗夜……パパとママも、後から行くから……ね?)


     パパとママの眼だ。
     別れ際の、最後に見た、世界で一番大切だったひとのまなざし。
     死の間際にあって、二人の眼は、紗夜に向かって叫んでいたのだ。
     生きなさい、生きていて――

        「あなたに生きていて欲しい」のだ、と。

     跪く少女に向かって、覚束なげに手が差し伸ばされる。
     「!」

     紗夜は、ビクリと身動ぎした。
     彼の手が頬とこめかみに。
     その手は手探りするように栗色の髪にそっと触れ、そのまま細かに震える少女の頭を繰り返し撫ぜはじめた。

    「龍麻さん」

     (何故なの)

     目の前がぼやけ、白く霞がかる。
     唇は震え、のどからは嗚咽が洩れた。
     瞳から熱いものが滲み出た。
     それは拘束台のシーツの上にぽたぽた零れ落ち、幾つかの透明な小さな染みを作った。

     ほどなく、頭上の気配が、消えた。

     少女は顔を上げた。
     彼の腕は、力を喪い、拘束台の脇に垂れ下がっていた。乱れた前髪に透ける瞼は、翳り閉じられ、その下にあるはずの光は、もはや見ることはできなかった。
     幾分うろたえ、取り乱した様で、覚えず彼の腕を取る。
     冷えきっている。
     が。微弱にではあっても、まだ暖かく、脈打っている鼓動を認め、口の中で安堵の息を吐いた。
     紗夜は立ちあがると、躊躇いの後、再び拘束具のスイッチを入れようとした。その手が止まり、土気色をした面差しに、じっと眼が注がれた。

     このままでは、彼は死んでしまう――。

     今の彼には、ひとりで此処から逃げる力はない。
     明日には、別の施設に移され、紗夜の手の届かない場所へと連れて行かれてしまうのだ。
     そこで、彼は……殺される?
     人ではないモノに変えられてしまうの?
     誰に知られることもないまま、死ぬことさえできずに、この上にまだ、傷つけられ、苦しめられるというの?

     いいの?紗夜。
     本当に、これで、いいの?このままで、いいの?
     わたしは……ほんとうは、どうしたいの?
     何もかも、失くしてしまった、捨ててしまったと思っていたのに。
     まだ、残されているものがあるというの?


     部屋に戻った紗夜は、後ろ手で扉を閉めた。
     胸ポケットにある写真をひっぱりだし、指で懐かしい面影をなぞると顔を上げる。
     鞄からペンとノートを取り出すと、一枚の紙に、ここ、廃屋までに至る近辺地図を描いた。
     綴じ代に合わせて物差が添えられ、微かに震える手が、一瞬の後、振り切るようにその頁を引き裂いた。
     紙片を丁寧に折りたたみポケットにしまうと、身支度を整え部屋を出た紗夜は、冷んやりと暗い長い廊下を歩いていった。もはや、彼女が後を振り返ることはなかった。

     外へと通じる最後の扉の前で、少女は深呼吸をし、重い取っ手に力を込める。
     錆びついた軋み音とともに、開け放たれた出口から、爽やかな緑風と光が射し込み、暗闇に慣れた眼を眩ませた。
     闇からすべり出た白い影が、透ける光のなか溶けるように消え去ってゆく。
     溢れる暖気。そして初夏の陽射しが肌に感じられ、安らいだ懐かしい想いが少女を包み込んだ。

     光ふりそそぐ空を、仰ぎ見る。


    (今度は、わたしが扉を開けるから)



     ――英司にいさん



     音もなく陽が輝く空の下。
     遠くから、鳥の呼び声が聞こえたような気がした。


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